初心者用 不動産投資基礎知識
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老年者控除について
ある個人について、その年齢が満65歳以上であるときには、基礎控除のほかに、50万円の所得控除が認められている。これを老年者控除という。
資産運用、一条美賀と結婚(維新後に美賀子と改名)。美賀との間には長女(瓊光院殿池水影現大童女)が安政5年7月16日誕生するも、7月20日に早世。以後、美賀との間に子は生まれず、明治になって誕生した10男11女は皆、二人の側室との間に儲けた子女である。公爵となり徳川慶喜家を継いだ七男・慶久や、勝海舟の婿養子となった十男・精、伏見宮博恭王妃となった九女・経子などがそれである。なお、慶久の子には、徳川慶光や高松宮宣仁親王妃となった喜久子らがいる。
忠績は姫路藩分家旗本5000石の酒井忠誨の長男であるが、姫路藩主酒井忠顕に子がないため、本家の養子となる。万延元年(1860年)家督を相続する。
外国為替証拠金取引、忠績は幕命により上洛した。京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びての入京であった。安政の大獄期に京都所司代に就任した酒井忠義(小浜藩主)は、井伊直弼暗殺後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり、しかも井伊直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代は空席という、開幕以来の異常な事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の京都所司代として正式に承認されるまで4ヶ月間その任にあたった。
京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)、老中首座となる。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に家茂の上洛が決定すると、御三家の水戸黄門、忍侯の松平下総守とともに江戸留守居役を命じられる。ちょうど一年後に老中を退いたが、8ヶ月後には大老となった。そして第2次長州征伐の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力した。
慶応3年(1867年)2月、隠居し、養子酒井忠惇に家督を譲る。明治3年(1870年)2月、静岡藩士酒井忠恕方への同居を認められる。明治13年11月、終身華族に列する。明治22年5月、永世華族に列し、男爵を授けられる。
井上 清直(いのうえ きよなお、文化6年(1809年) - 慶応3年12月25日(1868年1月19日))は、幕末の江戸幕府旗本。内藤吉兵衛の三男、母は高橋氏。井上新右衛門の養子。幼名は松吉。通称・新右衛門、信濃守。
投資信託寺社奉行吟味役、弘化4年(1847年)勘定組頭格を歴任する。
安政2年(1855年)老中阿部正弘の信任を得て下田奉行に就任。翌年アメリカ総領事ハリスが下田に来航すると、その応接を担当し、ハリスの将軍徳川家定謁見や日米修好通商条約討議に奔走する。安政5年(1858年)岩瀬忠震と共に全権として日米修好通商条約に調印し、間もなく外国奉行を兼任してロシア・フランス・イギリスとも通商条約を締結した。安政6年(1859年)将軍継嗣問題で一橋派に属していたため、大老井伊直弼によって一時小普請奉行に左遷されるも、間もなく軍艦奉行となり、海軍拡張に尽力した。
文久2年(1862年)町奉行に就任するが、文久3年(1862年)小笠原長行の率兵上京に従ったために免職となる。元治元年(1864年)三度目の外国奉行となり、また勘定奉行公事方に転任。慶応2年(1866年)町奉行として混乱する江戸の収拾に努めるなどした。
墓所は東京都新宿区の宗相寺にある。同じく旗本の川路聖謨は実兄にあたる。
陸奥国二本松藩主・丹羽長富の七男。後に稲葉正誼の元へ養子入りした。正室は酒井忠発の娘。
日経225では譜代の城代家老田辺家が執政を取り仕切るならわしで、正邦の代においては田辺権大夫(後右京)が藩政を差配した。田辺氏と正邦とは意見を違えることが多かったらしく、急進・改革を唱える正邦に対して田辺家は穏健派であったらしい。日常の藩主の執務に対して田辺氏が随行しないこともあったと、当該期史料に残る。
稲葉家は西国に睨みを利かせる畿内随一の藩であることから、正邦も当初から幕府内での昇進が早く、会津・桑名藩と薩摩藩が同盟を結んだ頃から京都所司代となり、京都の政務を一任されていた。後、老中、さらには政事総裁として、もっぱら江戸藩邸での活動に終始する。
幕府での位置づけが高まることから、第一次・第二次長州征伐への淀藩士派兵を決定するが、田辺権大夫の強硬な反対によって断念するという一幕があり、佐幕急進派の藩主と穏健派の藩首脳部の対立は顕在化していったらしい。老中を抱える藩として鳥羽・伏見の戦いには淀城より出兵、数名の戦死者を記録するも、藩首脳部と京都朝廷との密約成立により朝廷に恭順。このとき、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた正邦は、自らの藩が自らの決定無くして幕府に反旗を翻すという事態に遭遇、結局淀へ退去することとなる。稲葉家はその後も新政府に対する恭順の姿勢を貫き、正邦ら佐幕急進派が分裂することもなかった。
FXにより淀藩知事となり、廃藩置県によりその座を退く。墓所は東京都港区南青山の青山霊園。後は養子の稲葉正縄が継いだ。
水野 忠精(みずの ただきよ、1833年2月5日(天保3年12月16日) − 1884年(明治17年)5月8日)は、江戸時代後期・末期の大名。出羽国山形藩第2代藩主。忠元系水野家12代。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の長男。正室は井上正春の娘。子に水野忠弘(長男)、水野忠美(六男)、娘(奥平昌邁正室のち日下義雄室)、娘(井上正英室のち辰馬某室)。養女に戸田忠温の娘(水野忠幹継室)。官位は従四位下、大監物、和泉守、侍従。
幼名は金五郎。名は忠精のほか、忠良、忠経。父・忠邦が天保の改革に失敗して隠居したため、家督を継いだ。弘化2年(1845年)、遠江国浜松藩から出羽山形に移封されるが、これは父の失脚に伴う左遷である。
その後、寺社奉行、若年寄などを歴任し、文久2年(1862年)には老中となった。慶応2年(1866年)に長男・忠弘に家督を譲っている。
明治17年(1884年)53歳で死去。
将軍家旗本設楽貞丈の三男、母は林述斎(林羅山を祖とする林家の大学頭)の娘。後に岩瀬忠正の養子となる。
嘉永2年(1849年)、老中筆頭阿部正弘にその才能を見出されて目付に任じられる。その後も外国奉行にまで出世し、来航したロシアのプチャーチンと交渉して日露和親条約締結に臨み、安政5年(1858年)にはアメリカ合衆国の総領事・タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に井上清直と共に署名するなど、開国に積極的な開明的な外交官であった。
同年、13代将軍徳川家定の将軍後継者争いで徳川慶喜(一橋徳川家当主)を支持する一橋派に属し、大老となった井伊直弼が反対派や一橋派の排斥を行う安政の大獄で作事奉行に左遷され、安政6年(1859年)には蟄居を命じられた。文久元年(1861年)、44歳で死去。
墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。
藤原南家の末裔で、鎌倉時代に幕府官僚として活躍し、南北朝時代には、奥州の豪族となった二階堂氏の支族といわれる。岩瀬氏の祖は、15世紀に奥州から三河国に移り戦国大名今川氏に仕官して、宝飯郡内(現、豊川市)に、領地を授かる。
また、岩瀬氏安のときに、松平清康に仕えて、以後、松平・徳川のために尽くしたとことが、寛政重修諸家譜に述べられているが、松平・徳川方の史料には、家康の父や祖父のころから、岩瀬氏がこれらに服属したとする史料は存在しない。
東三河の土豪であった牧野氏、真木氏、野瀬氏などと共に、その周辺に根を張り、今川氏のため、西三河の松平氏と対峙していた勢力であったとみられる(牛窪記・三河国文献集成など)。
もっとも、松平清康が三河国をほぼ統一した享禄4年(1531年)に、吉田城主牧野氏及び、真木氏には、清康と戦った史料・伝説が存在するが、牛久保城主牧野氏及び、岩瀬氏には、清康と合戦したとの史料・伝説は未見である。
室町・戦国期の岩瀬氏の惣領家は、家康の関東移封に随従せずに、宝飯郡千両村の郷士となり、明治を迎えている。
大塚城主岩瀬氏俊の弟和泉守入道善性が牛久保城主牧野氏に付属したものが、徳川幕臣・岩瀬氏の祖である(相模国小田原藩重臣・岩瀬家文書、三河国古文書「大塚邨誌」岩瀬系譜など)。この家系の岩瀬氏は吉左衛門を通称として、家康に服属後もしばらくは牧野氏の傘下にあった。
寛政重修諸家譜によると、永禄7年(1564年)に、岩瀬氏は、岡崎で家康に謁見して、直臣に列したが、その後、当主は二代に渡り戦場で討ち死にしている。
岩瀬氏が、徳川・松平の家臣となったのは、清康以来説、永禄7年説、天正18年(1590年)説の3つがある。
江戸時代には、はじめ岩瀬吉左衛門家から、各300俵で分家として分出された幕臣(旗本)の末家が2つあった。岩瀬忠震は、分家の出身である。
また幕臣岩瀬氏の同族異流として、相模国小田原藩主大久保氏10万石の1,000石級の重臣となった吉右衛門を通称する岩瀬氏がある。幕末に、小田原藩の番頭席から家老職に抜擢された岩瀬大江進は、官軍の軍監を殺した責任をとるため、切腹した。